事件の提示
ある四半期、A 社という優良企業が決算を発表した。売上は前年比 8%増、営業利益は 12%増。アナリスト予想を上回る数字だった。
しかし、株価は決算発表後に 5%下落した。
「なぜ、良い決算なのに株価が下がるのですか?」
読者の問いに、久遠叡司はすぐには答えなかった。代わりに、彼は決算短信の 3 つの数字を指差した。
相談者の早合点
「利益が増えたのだから、買いでしょう」
多くの個人投資家は、このように考える。営業利益が増えている。アナリスト予想も上回っている。ならば、株価は上がるはずだ。
しかし、株価が下落した事実が、その推論のどこかに欠落があることを示している。
案内役の違和感
「その利益は、現金になっていますか」
久遠叡司の最初の問いは、利益の質を問うものだった。利益は会計上の概念であり、現金とは異なる。
彼は、投資家に 3 つの財務諸表を並べて見るよう促した。
事実の収集
損益計算書(P/L)
| 項目 | 当期 | 前期 | 増減 |
|---|---|---|---|
| 売上高 | 1,080 億円 | 1,000 億円 | +8% |
| 営業利益 | 112 億円 | 100 億円 | +12% |
| 純利益 | 78 億円 | 70 億円 | +11% |
キャッシュフロー計算書(C/F)
| 項目 | 当期 | 前期 | 増減 |
|---|---|---|---|
| 営業 CF | 85 億円 | 95 億円 | -10 億円 |
| 投資 CF | -60 億円 | -50 億円 | -10 億円 |
| 財務 CF | -20 億円 | -30 億円 | +10 億円 |
バランスシート(B/S)
| 項目 | 当期 | 前期 | 増減 |
|---|---|---|---|
| 売掛金 | 280 億円 | 240 億円 | +40 億円 |
| 棚卸資産 | 150 億円 | 130 億円 | +20 億円 |
| 現預金 | 200 億円 | 195 億円 | +5 億円 |
「利益は増えている。しかし、営業キャッシュフローは減少している。売掛金と棚卸資産は増加している。」
「この 3 つの事実を同時に説明できますか?」
仮説の分解
仮説 1:売上成長の質
売上 8%増の内訳を検証する。
- 数量増加によるものか?
- 価格転嫁によるものか?
- 為替によるものか?
売掛金の増加が売上成長を上回っている場合、売上の一部は未回収である可能性が高い。
仮説 2:利益の質
営業利益 12%増の内訳を検証する。
- 本業の改善によるものか?
- 一時的な費用削減によるものか?
- 特別利益によるものか?
営業キャッシュフローが営業利益を下回る場合、利益の質に注意が必要である。
仮説 3:運転資本の増大
売掛金と棚卸資産の増加は、運転資本の増大を意味する。
- 売掛金の増加:回収期間の長期化
- 棚卸資産の増加:販売速度の低下
これらは、将来のキャッシュフローを圧迫する要因となる。
反証の提示
「この投資仮説が崩れるのは、どの条件ですか?」
久遠叡司は、投資家に次の問いを投げた。
- 売掛金がさらに増加し、回収不能債権が発生したら?
- 棚卸資産がさらに増加し、在庫評価損が発生したら?
- 営業 CF が 2 四半期連続で営業利益を下回ったら?
これらの条件が発生した場合、利益の質はさらに低下し、株価はさらに下落する可能性が高い。
暫定判断
「買い、保有、監視、見送り。あなたはどれを選びますか?」
久遠叡司の判断は、「監視」だった。
- 営業 CF の改善を確認するまで、本格的な買いは見送る。
- 売掛金と棚卸資産の増加が止まるかを確認する。
- 次の四半期決算で、運転資本の動向を注視する。
読者への問い
「あなたなら、どの数字が変わった時点で判断を撤回しますか?」
投資は、仮説の連続である。そして、仮説には必ず反証条件が必要である。
この事件簿が、あなたの投資判断の質を高める一助となれば、これに勝る喜びはない。